滋賀に帰るのではなく、滋賀を変えるために ―村田和哉がJチームを”つくる側”に回った理由
2021年、10年間のプロ生活に幕を下ろした引退会見で、村田和哉氏はこう宣言した。
「滋賀にJリーグクラブをつくりたい」
スポンサーも、選手も、練習場すらない。それなのに、なぜ彼はリスクだらけの道へ踏み出せたのか。そして、どうやってゼロから仲間と資金を集めることができたのか――。
第2回では、村田氏が設立した「株式会社人生最幸」と「ヴィアベンテン滋賀」の誕生に光を当て、想いが現実を動かしていくプロセスを紐解いていく。
帰るのではなく、変えるために
──今回は、「株式会社人生最幸」の設立と、サッカーチーム「ヴィアベンテン滋賀」の誕生までのプロセスや、その後の活動についてお聞きしたいと思います。
まず、引退後の進路には指導者や解説者などもあった中で、なぜ誰も想像していなかった“クラブをゼロから作る側”へ回られたのでしょうか。当時の思いは?
村田:清水エスパルスで6年、その後は柏レイソル、アビスパ福岡、レノファ山口FCでプレーし、2021年1月31日に10年間の現役生活を終えました。会見の場で「滋賀にJリーグクラブをつくりたい」と言いましたが、あれは突然のひらめきではなく、現役時代の延長にあったんです。
清水ではサッカーが街の中心にあり、人も企業も行政も、クラブを軸に繋がっていく姿を日常的に見てきました。「クラブの存在が人と街を動かす力になる」と。
一方、地元の滋賀にはJリーグクラブがなく、プロサッカー選手が日常に存在しません。
そして、清水では街中の人に声をかけてもらえた自分が、地元に戻ると誰にも存在を知らない。そのギャップに忸怩たる思いがあったんです。
しかも、子どもたちに夢を伝えたいと思っても、そんな状態では接点すらないわけです。
では、どうすればいいのか?
滋賀にJリーグのクラブがあれば、街も、子どもたちの未来も変わるはず――そう考えました。
そのために、まずオフシーズンの過ごし方をガラリと変えたんです。
ハワイでもグアムでもなく、妻とともに滋賀へ戻ると、学校へ片っ端から電話して「“夢の授業”をさせてください」と直談判。
「夢授業」は、子どもたちに「自分の可能性を信じて、夢を言葉にしていいんだ」と伝えに行く授業・活動で、今や全国各地で年間100回を超える講演や体験授業を行っています。
また、公園にいる子どもたちに「一緒にサッカーしよう」と声をかけて、妻とゲリラ的にミニゲームを始めたことも。
いま思えば、かなり怪しい夫婦ですけどね(笑)。
さらに守山市役所へ出向き、「ふるさと大使をやらせてください」と自ら逆オファーして。
僕の熱意を守山市長に受け止めていただき、『もーりー守山ふるさと大使』を2016年から担当しています。

32歳で引退すると決めていた
――しかも、Jリーガーとして現役バリバリの頃の活動。すごい行動力です!
そして見方を変えれば、現役を続けながら、未来の軸足を滋賀に移していったとも言えます。
村田:22歳でプロになったのですが、32歳(10年)で引退して地元に帰ると決めていました。
実は、いざ時期が迫るとサッカー人生から降りるのが怖くなってしまって。
そんな自分の背中を押してくれたのが、故郷・滋賀の象徴とも言える竹生島。
琵琶湖北部に浮かぶ小さな島で、宝厳寺という島の神社には、日本三大弁財天のひとつ・竹生島弁才天が祀られています。
願掛けの「かわらけ投げ」に、僕は迷わずこう書きました。
「滋賀にJリーグクラブを」
鳥居めがけてかわらを投げ、鳥居をくぐれば願い事が成就すると言われているのですが――なんと、スパッと一瞬で鳥居を抜けたんです。
その瞬間、すべての迷いが消えて妻に電話しました。
「俺、引退するわ。滋賀に呼ばれてる気がするから」と。
――ドラマチックな展開ですね。その決意を胸に、引退会見に臨まれた。
村田:そうです。退路を断つには、これ以上ない場所でしたね。
多くの人に「無謀すぎる」と言われても、子どもたちの前で「夢は言葉にしていい」と伝えてきた自分が、自分の夢を公言しないわけにはいきませんから。

“琵琶湖×弁財天”に込めた 勝利・革新・冒険の願い
──それからすぐに行動を?「株式会社人生最幸」という社名はインパクト大です。
村田:はい、引退直後の2月に会社を設立しました。
企業名がユニークだとよく言われますが、由来は単純なんです。僕の10年間のプロ生活が“最幸”だったので、これから関わるすべての人の人生も“最幸”であってほしいなと。
なお、任意団体ではなく、地域と正式に手を組める器(会社)を作ったのは、滋賀にクラブを根付かせるためです。
――チーム名はどのように決まったのですか?
村田:全国公募で約650の中から「VIABENTEN SHIGA(ヴィアベンテン滋賀)」に決まりました。
応募にあった「琵琶弁天」から取ったもので、そもそも琵琶湖の由来は、竹生島の弁財天が持つ琵琶に似ているからという説があります。そこからVIA(ヴァ=琵琶)とBENTEN(弁天)を掛け合わせ、Victory(勝利)・Innovation(革新)・Adventure(冒険)に滋賀らしさと未来への願いを込めて。
――竹生島での決意がチーム名に宿っているので、非常に深い意味です。
では、会社とクラブはどのように立ち上がったのでしょうか。
村田:まったく“ゼロ”からのスタートで、仲間もいない、資金もない、練習環境もない状況。
でも、できることはありました。それは、滋賀の未来を信じ、声を上げ続けること。
そうして、信念を言葉にして歩みを止めないでいると、「一緒にやりたい」「滋賀を変えたい」と言ってくれる仲間が、一人、また一人と現れたんです。
――没入が人を巻き込んでいったんですね。
村田:そう思います。僕が本気で突き進む姿が、「自分も一緒にやろう」と、火をつける力になっていったんだと。
次のステップがクラブの立ち上げで、SNSで「人生を変えたい人、滋賀に貢献したい人、一緒にサッカーと街づくりをしませんか?」と呼びかけました。
ところがここで、「練習場がない」ということに気がつきまして……。
ビッグレイクのような人工芝グラウンドは費用的に厳しく、最初はナイターもない土のグラウンドを借りて、真っ暗な中で練習していましたね。
実は、この時の写真を取ってあるんです。 スタートがどれだけ泥臭かったかを、未来の仲間に見せようと思って。

スポンサー100万円の重み
村田:しばらくして、滋賀のある企業が年間100万円のメインスポンサーになってくれたんです。連絡を受けた瞬間、手が震えました。だって、何の実績もないクラブに100万円ですよ?
そのとき、ようやく気がついたんです。
ユニフォームに入るスポンサー名も、練習する場所があることも、支えてくれる人がいることも――決して当たり前じゃないんだと。
今のユニフォームは、仲間と20案以上を出し合って決めました。
色一つ、ロゴ一つに地域の想いが宿る。
そう思えた瞬間、世界の見え方がまるごと変わりましたね。
──これまでのお話を聞いていると、「没入」というテーマがものすごく腑に落ちます。村田さんがサッカーに没入するだけでなく、街に、子どもたちに、さらに自分の夢はもちろん、他人の夢にも没入してきた。その点をご自身ではどう捉えていますか?
村田:僕自身は、特別なことをやっている感覚はあまりなくて、自分が信じた方へ全力で向かっているだけなんです。
ただ、夢授業で出会った子どもたちのアンケートを読むと、「自分の夢なんて叶わへん」「挑戦しても無駄やと思っていた」という声が本当に多かった。
それを前にして、じゃあ僕はどうするんや?と考えたときに、挑戦する大人がちゃんと存在することが何より大事だと感じたんです。
たとえ失敗しても笑われてもいい。夢に向かって本気で挑む大人がいて、その姿を見た子どもたちが「自分の夢も言っていいんや」と思えたなら、それだけで十分価値がある。
――村田さんは示そうとしているのは、成果よりも姿勢なのですね。叶うかどうかより、「本気で追いかける大人の背中」が必要だと。
それが人の気持ちを動かすための、最もシンプルで、最も強い力なのでしょう。

【次回予告】
ヴィアベンテン滋賀は今、県リーグで実績を積みながら、Jリーグ参入に向けて着実に歩みを進めている。
その挑戦は、勝敗だけで完結しない。
スポーツを通じて地域とともに前へ進み、滋賀で“挑戦する大人”を増やしていく試みでもある――まさに次のフェーズへと向かうタイミングだ。
最終回となる第3回では、村田氏が描く「滋賀の未来が変わっていくプロセス」に迫る。