滋賀県守山市・野洲川歴史公園サッカー場ビッグレイク。秋空の下、広大な人工芝グラウンドを借り切って行われた今回の対談は、まさに“現場”そのものから幕を開けた。
ゲストは、野洲高校が“セクシーフットボール”で全国を沸かせた『第84回全国高校サッカー選手権』の優勝メンバーであり、その後、清水エスパルスなどで10年間プレーした村田和哉氏だ。村田氏は2021年の現役引退と同時に「滋賀にJチームを」という大きな夢を掲げ、株式会社人生最幸(ヴィアベンテン滋賀)を立ち上げた。
そんな村田氏を迎えるのは、人と組織のパフォーマンスの最大化を掲げる Luvir Consulting(株)代表・中川裕貴。 中川が今回の対談で見つめるテーマは“没入”だ。自らの没入がどれだけ周囲を巻き込み、人を動かし、パフォーマンスを引き上げるのか――。その核心に触れるべく、実務家としての視点で村田氏の歩みと挑戦に迫った。
直観で選んだ道が人生を変えた 野洲高校から始まった栄光と試練
滋賀のサッカー少年にとって、進学先の王道は強豪・草津東高校だった。けれど村田和哉氏は野洲高校を選んだ。誰もが納得する理由があったわけではない。むしろ、その逆だった。多くの大人が反対するなか、それでも野洲高校の門をくぐったその決断が、のちの全国制覇、プロ入り、そして“街を変える挑戦”へと続いていくのだが――。
第1回では、野洲高校時代の“セクシーフットボール”から、大学時代の栄光と挫折、そして清水エスパルスでの6年間を通して、「サッカーは街づくりだ」という視点が育っていくまでのプロセスを取り上げる。
| ●村田和哉氏 プロフィール サッカー選手/株式会社人生最幸 代表取締役/ヴィアベンテン滋賀 代表・監督 滋賀県守山市出身。野洲高校で全国制覇を経験後、大阪体育大学2年時にも全国制覇を果たす。 2011年にセレッソ大阪へ加入し、その後は清水エスパルス、柏レイソルなどで10年間プレー。 2016年に守山市のふるさと大使に選ばれ、2017年にはプロサッカー滋賀県人会を設立するなど、 現役時代から地域との関わりを深めてきた。 2021年2月に現役引退。同年、滋賀にJリーグクラブを作るべく、 運営会社「(株)人生最幸」を創業、クラブ事業として「ヴィアベンテン滋賀」の運営をスタートさせる。 現在はクラブ運営、学校での講演活動、地域活性化プロジェクなど多角的な取り組みを展開。 “スポーツ×まちづくり”による地域価値創造を掲げ、滋賀から日本へ、そしてアジアへと広がる新しいクラブ文化の創造に全力で挑み続けている。 |
| ●中川裕貴 プロフィール Luvir Consulting株式会社 代表取締役 大和証券グループ、学習塾経営、デロイトトーマツコンサルティング、大手フィットネスグループを経て独立。人事制度設計や経営戦略立案のプロジェクトに多数参画。 2018年よりFIDIA(旧Suprieve Holdings)に執行役員として参画し、後にCOOとして複数事業を統括。 2019年4月、Luvir Consultingを設立し代表取締役に就任。2024年7月にはMBOを実現し、 プロフェッショナルファームとして幅広いテーマに対するコンサルティングサービスを提供している。 |
最初の選択は”胸騒ぎ”から始まった
──今日はよろしくお願いします。
村田:同年代の方にインタビューされるのは初めてで、ちょっと緊張しています(笑)。
――いえいえ、こちらこそです。実は同じ歳で、僕も元サッカー少年なんです。僕らの世代にとって、野洲高校といえばめちゃくちゃ憧れのチームですし、その後のご活躍もリアルタイムで見ていました。まさかこうして対談できる日が来るとは……本当に光栄です。
村田:そう言っていただけて嬉しいです。どうぞよろしくお願いします。
──早速ですが、少年時代に遡ってお聞きしたいと思います。滋賀には強豪の草津東高校もある中で、なぜ野洲高校を選ばれたのですか?
村田:あれはもう完全に直観、“胸騒ぎ”でしたね。なぜか野洲の時代が来る気がして。
周りの大人からは草津東を勧められました。「サッカーのエリートは草津東」「体育館も立派やし」って。僕も草津東の推薦を貰っていて、進路としては王道でした。でも、願書を出す1週間前に直観で「野洲に行こう」と。
実はその少し前に親父を亡くしているのですが、仏壇の前で「一回きりの人生やし、行きたいほうに行くわ」と報告していたんです。
──野洲高校の門をくぐって、まず何を感じましたか?
村田:“ヤンチャ多め”という噂は聞いていましたけど、想像以上やなと(笑)。
ただ、サッカー部の空気は全く違いました。1つ上の代がめちゃくちゃ上手くて、僕らの代にも乾貴士を筆頭に、滋賀中から良い選手が集まっていたんです。皆、「野洲の時代をもう一度つくる」という熱がありましたよ。
その中心にいたのが山本佳司監督です。なぜか金色のスーツで現れるような人なんですけど(笑)、語る言葉の熱量がとにかくすごい。
「日本の高校サッカーを変える」
「国立なんかどうでもええ。野洲から世界へ羽ばたく人材を出すんや!」
そんな夢みたいな話を本気で言う大人に、僕は初めて出会いました。

──あの有名な“セクシーフットボール”はそこから生まれたわけですね。
村田:監督がよくおっしゃっていたのは、「観客もプレイヤーも魅了する、ワクワクするサッカーをしよう」ということ。その哲学のもと3年間やらせてもらって、2年生のときに全国優勝しました。
僕はベンチでしたが、あの日の光景は一生忘れません。
男泣きする山本監督の背中を見たとき、胸の奥がグッと熱くなって「いつか自分も思想で人を動かせる大人になりたい」――そう心に刻んだんです。
山本監督と出会わなければ、今の僕は全く違う景色を見ていたと思います。
大学での栄光と挫折、そしてセレッソ大阪へ
──進学先の大阪体育大学でも、二度目の全国優勝を経験されています。
村田:2年生の時です。入学時は関西2部リーグで強豪とは言えないチームだったのに、関東の強豪校などもすべて倒して一気に勝ち上がり、気がつけば全国優勝へ。
でも、大学4年間は波瀾続きで……骨折3回、最後の年はチームが2部に降格。2部からプロに上がるケースはほぼなく、プロは無理だろうと覚悟していました。
ところが、セレッソ大阪からオファーをいただいた。「ほんまに僕でいいんですか?」と震えました。
無所属、琵琶湖ラン、ゼロに戻った4か月
――当時のセレッソ大阪はスター揃いですよね。たとえば清武弘嗣さん、香川真司さん、柿谷曜一朗さん、杉本健勇さん、山口螢さん……
村田:そうなんです。代表クラスや海外を目指す仲間たちが、すぐ隣で当たり前のようにプレーしている環境でした。そんな舞台に、僕は22歳で飛び込んだ。
本来なら18歳で入る世界ですから、4年も遅れている。しかも当時、プロ選手の平均寿命は26歳と言われていた時代で、「あと4年で終わるんか」と、いつも心のどこかに焦りがありました。
そんな中、仲間たちが次々と海外へ行く姿を見て、僕もアメリカに挑戦したのですが――契約はまとまらず、帰国したときには身一つの“完全無所属”。
クラブにいた頃は当たり前だったグラウンドも、ゴールも、スパイクも、何一つない。突然、全てを失った世界に放り出されて、「ああ、これが本当のゼロか」と思い知らされましたね。
滋賀に戻ると、毎日ひとりで琵琶湖の周りを走りました。自分で地面にラインを引いて、「今日はここまで走る」と決めて、ただ黙々と走るだけ。声を殺して泣きながら走ったこともあります。
そんな日々が4カ月ほど続きました。

――普通なら心が折れてもおかしくない状況ですが……。
村田:どん底のときこそ、どこかに光がある。頑張っていれば必ず誰かが見てくれるはずだ、って。そんな気持ちだけで走り続けていたんでしょうね。
実際、命の恩人みたいな電話が来たんです。
清水エスパルスからでした。
「村田、ひとりで滋賀におるらしいな。選手が足りへん。ウチに来られるか?」
迷う理由なんてひとつもない。
「スパイクだけ持って、明日行きます!」
即答でした。
そして静岡に降り立った瞬間、腹を括ったんです。
清水のためになることなら、何でもやろう。
静岡のためになることなら、全部やり切ろう――と。
サッカー選手から”街づくりの担い手”へ
――その覚悟は、どんな行動に表れていったのでしょうか。
村田:通常、プロ選手は練習が終われば休むのが“仕事”。でも僕は、商店街やスクールを回り、自腹でグッズを買ってサインして配るなど、とにかく街の中に入っていきました。
「イベントなんか行きたくない」という選手も多い中で、「それ、全部僕が行きます!」と手を挙げていましたね。
そうして地域と関わるうちに、「これはサッカーではなく、街づくりや」と気がついたんです。
1年半ほど経った頃、クラブから「村田さんがグッズ売上No.1ですよ」と言われて驚きました。10番でもエースでもなく、15分しか出ないスーパーサブの僕がですよ?
「子ども向けの売上が圧倒的」と聞いても腑に落ちず、保護者のかたに聞きに行ったんです。すると、「名前呼んでくれたから」「一緒にサッカーしてくれたから」「サインして握手してくれたから」って。
それを聞いて、自分の中の“選手像”がまるごと書き換わった気がしました。
応援される理由は、チームの勝敗や出場時間、肩書きでもない。“人としてどう関わったか”が全てなんだと。
実は僕たち夫婦は、清水の商店街のど真ん中に家を構えました。気軽に「いつでも会いに来てください」とか言って(笑)。
そしたら商店街の人たちが自発的にお金を出し合って、商店街中に「村田和哉を応援しています」書かれたビッグフラッグを掲げてくれたんですよ。 その景色を目にしたとき、胸の奥が熱くなりました。そして、「プロクラブは街を元気にする装置なんだ」――そう実感したんです。

――村田さんはサッカー選手である前に、“人として応援される存在”であろうと努力された。清水時代のその経験が、現在の「滋賀にJクラブをつくる」取り組みに繋がっていくのですね。
村田:はい。清水での6年間、もっと言うと野洲高校での原体験、大学での栄光と挫折。それら全てが今の挑戦の土台になっています。
――お話を伺って、村田さんが「サッカーだけに向き合う」のではなく、街にも人にもとことん入り込み、関わるもの全部を“自分ごと”にしていく姿勢が印象的でした。
その没入の深さこそが、挑戦の灯を絶やさない源なのだと思います。
【次回予告】
vol.2では、村田氏が現役引退と同時に掲げた「滋賀にJクラブをつくる」という大胆な決断の裏側に迫ります。
なぜクラブを“つくる側”へ向かったのか。どんな仲間が集まり、どんな壁が立ちはだかったのか。そして、(株)人生最幸とヴィアベンテン滋賀は、どのようにして一歩を踏み出したのか。 “村田和哉・人生の第2章”が動き出す瞬間は――。
